2010年6月7日月曜日

6月6日 友愛ホールでヌーベルの発表会が大変賑やかに開催された。ヌーベルというのは、井草町の北なか通りにある、ヌーベル スクエアー 足利の 略である。ここではピアノ シャンソン 各種の手芸 フラダンス等 20数種の習い事を指導している。空き店舗対策の事業の一つである。、市からの補助もあるので、月謝もかなり安い。最近口コミで人気も高まり、受講生も随分増えてきたようである。20人以上の女性が派手ではないがおもいおもいの衣装に身をつつみ、懸命にシャンソン等を歌っていた、私は聴きながら感動すら覚えた。展示品にしろ 歌にしろ上手下手は問題でない、参加する人の笑顔が大切なのだとつくづくおもったのである。聞くところによると、今年から 補助金が減額になったようだ、今流行の事業仕分けの結果らしい。去年まで 8月の花火大会のときにも 参加応援して、300人を集めるイベントを行ってきたが 今年は無理だろうと 関係者が言っていた 誠に残念なことである。とても楽しい日であったが 最後に不愉快な思いを残して会場をあとにした。

2010年6月1日火曜日

ばん阿寺の44世住職 仁也大僧正が逝去されて2年が経ち 3回忌の法要が行われた。60人ばかりの 縁りの人たちがそれぞれ 住職を偲びながらしめやかな 時 を過ごした。私は幼い頃から知っているだけに懐かしさも一入だった。足利氏ゆかりの会が京都府 綾部市であった時 仁也和尚が足利氏の歴史の一端を講演したことがあったが 和尚の幅広い知識と巧みな話術にはしんから感心したものである。足利尊氏が 京都に幕府を開いたのは周知の事実であるが、3代将軍 義満公あたりからの歴史的資料はあるが かんじんな尊氏公の資料は乏しいときいたことがある、信心深い尊氏公のことである、先祖の墓参をしない筈が無いという説もある、つまり ばん阿寺に来ているわけだが 残念ながら かくたる証拠がない、ばん阿寺の中を 隈なく探せば何かでてきそうな気がする。仁也和尚が生きていればなーとおもいながら時をすごしていた。どなたか研究者が現れないかと期待している。

2010年4月30日金曜日

桜も散り 両崖山の新緑が目に眩しい 今年は変な気候だったが 漸く春本番になった。Winter is over and Spling has come これは私が1943年昔の足利中学校に入学して初めて習った英語である。その後徐々に戦争が激しくなり、英語の授業もかなり少なくなってしまったが、春になると幼い時に覚えたこも言葉がかならず口からでてくるから不思議である。人は自分の生まれた季節が好きになるらしい。私は7月生まれ だから 夏が大好き どんなに暑くても平気である、真夏の炎天下背中をながれる汗を物とはせずゴルフをしたものである、1月生まれの家内とは この点ではどうも意見があわない。街に出ると沢山の観光客が溢れている。一昔まえと比べると隔世の感をかんじる。数あるなか 足利をえらび お出でになるお客さまは 大切に接待しないといけないとおもいながら大日様を散歩してきた。足利っていいとこだなーとおもいながら。

2010年4月27日火曜日

ごみ収集業を現場としている従事者の方から話しを聞いた 最近ごみの量がかなり増えたらしい 袋が安くくなったので、みんなが分別をしなくなったということである。、また収集事業の経費節減をねらい入札制度を変えて、新に4社募集した結果 3社が群馬県の業者に決まってしまった、今までこの事業に携わっていた市内業者は、気の毒なことに、倒産の憂き目にあうのではないかと噂がとんでいる、まことに困ったことである。事業に新規参加した業者は足利市内は不案内 収集には苦労すると思う迷惑するのは市民、収集費が1億8000万浮いたなどと言って喜んでいるようだが 増え続けるごみを処理しなければならない経費はどうみているのか この際市の職員に聞きたいものだ、ゴミは 1トン当たり平成20年の資料によると、33,974円もかかる現実を注目すべきである。

2010年4月21日水曜日

久しぶり宇都宮に行った 二人の副知事に会うためである。初めて田沼の吉水のインター 正確には佐野田沼インターチェンジというが 北関道に乗った。きわめて快適に走れ20分ほどで 鹿沼に着いた。菅田に早くインターが出来ればとつくづく思ったもである、いよいよ足利が最後になってしまったという思いを強く感じた、昔ある首相が足利には議員が居ないからなーときかされたのを思い出したものである。インターができると正に街が変わる佐野市北部の変わりようには 目をみはるものがある、このままでは佐野に抜かれるのではないかと 怯えるほどである。こちょこちょ目先のことにとらわれていないで 大局的に足利市の将来を見据えてしっかり舵取りをしてもらいたいものである。 

2010年4月15日木曜日

惜しい人が逝ってしまった。体育協会会長の中村議一さんである、足高から中央大学と進み その間 バレーボールひとすじ 家業の中村米穀商を継いだ後は 早くから足利市のバレーボール教会の会長をつとめ、特に家庭婦人バレーボール大会の普及発展にはなみなみならぬ努力をされた方である。お蔭で両毛地区の大会は大変人気があり 群馬 栃木の各市から精鋭チームが足利に集まり毎年熱戦を展開するのである。今年も群馬から8チームの参加があり、30回を迎えた。残念ながら今年は中村会長は姿を見せなかったが、その体の大きい体で、いつもニコニコ笑みをたやさない中村さんが 忽然と黄泉の世界に旅だってしまった。バレーボールの仲間たちは大変悲しんでいた、私も弔辞をあげながら 涙をこらえることができなかった。中村さん さようなら、合掌。 

2010年3月28日日曜日

通り2丁目の角地にある いぶきビルの1階にあった、知的障害者が参加している 砂時計という喫茶店と、足利工業大学が市街地での実践体験の事業として活躍してきた事業があいついで 閉鎖された。いずれも 市が補助金をだして運営してきた空き店舗対策の事業であった。勿論期限があってのことは承知はしているが 今日は最後になる、斎藤ヒサ 手縫い帽子教室作品展 に行ってみた。 いろいろな帽子がきれいに 飾られていた、数人の製作者である女性が楽しそうに立ち働いていた。私はそこにすがすがしい ”文化”をかいまみたような気がした。このような工芸的な展示は民間の貸室ではどうしても 割高になるだろう、市が手を差し伸べてもいいのではないかと しみじみ感じたものである。もし閉鎖するなら 代案を出すべきであろう。これが 血の通った政治というものである。